こんにちは。
やす(@yasulog2)と申します。
プロフィールをご覧いただき、誠にありがとうございます。
本業は、大学院修了後、大手情報通信会社に入社。パワハラで4年間のメンタルダウンを経験した後、36歳で異業界。異職種。中小企業へと初転職。いまマネージャー+3社の社外監査役として働いているサラリーマンです。
副業は、中小企業診断士の資格を活用した執筆、企業コンサル、事業計画作成支援など、11年間継続し年7件の副収入に到達。共著2冊。開業届も提出することができました。
また、休日は6歳息子と遊ぶのが最高に楽しい一児のパパでもあります。
本自己紹介は、僕の42年間を綴っています。
特に、こんな人にお読みいただけたら嬉しいです。
- 年齢を理由に諦めてしまっている。
- 人生どん底で、自暴自棄になりかけている。
- 自分なりに頑張っているのに上手くいかない。
- いまの生活に不満はないけど、満足もしていない。
- やりたいことがあるけど、理性が働いて行動できない。
- 何となく将来が不安。でも何をしたらいいのか分からない。
決して順風満帆ではなく、失敗と挫折の繰り返しの人生。
それでも、諦めずにコツコツ歩み続けてきたおかげで、少しずつ人生を変えることができました。
いまは本業、副業、情報発信、家族、育児と忙しいながらも、心身充実した日々を過ごせています。
そんな42年間の歩みについて
- 経歴
- 人生変わるきっかけになったこと7選
- やすの思い
の大きく3部構成で書き上げました。
ぜひ、ご一読いただけましたら幸いです。
それでは、どうぞ。
経歴
幼少期
1980/11/2
三重県で誕生。
父親が転勤族で、幼少期は東京、静岡、愛知といろいろな場所を回っていたみたいです。
幼稚園は、年少だけ愛知県で過ごして、年中、年長の2年間は三重県へ。
ほとんど記憶はないのですが、
- 近所のスーパーでガチャガチャやりたいって泣き騒いでいたこと。
- トイレのドアの鍵を内側からかけてしまって出れなくなり、大泣きしていたこと。
- 好きな女の子の家でスーパーマリオにファミコンをしていて、帰らないってダダこねていたこと。
なぜか、こんな記憶だけあります笑
小学校時代
幼稚園を卒園し愛知県へ戻ってきました。
小学校1年生から大学院2年生まで、ずっと愛知県で過ごしていたので、実質僕の地元になります。
低学年のときは、何かを自分の手で作ることや、自分の大好きなものを集めて眺めることが大好き。
外より家の中で遊ぶことの方が多かったです。
- お絵かき帳にドラゴンボールの絵を描く。
- スーパーマリオのゲームをお手製で作る。
- ビックリマンシールやドラゴンボールのカードダスを集める。
高学年のときは、「ドラクエ」「ファイナルファンタジー」といったRPGゲームに大ハマり。
学校から帰ってきたら即ファミコン。
完全制覇への欲がとにかく強くて、
- 全員レベル99目指して毎日コツコツ敵を倒しまくる。
- 武器防具やステータスは最強を目指す。
- やり込み要素も全部やる。
と、夢中になっていました。
また、小学校5年生、6年生のとき、一気に身長が20cmほど伸びました。
このとき、身長の伸びに体がついていかず、授業中に気持ち悪くなって吐き気に襲われたことも、、
このことがきっかけで、若干のいじめも受けました。
中学校時代
小学校のとき、まったく運動をやってなかった運動オンチの僕が、中学一、二を争うほど厳しい「バスケ部」へ入部しました。
きっかけはほんと単純。
当時、「スラムダンク」というマンガを見て、バスケ面白そうって思ったから。
バスケ部に入れば、流川みたいにダンクできるようになってモテるって思ったからです笑
そんな不純な動機で入部したバスケ部の厳しさは想像以上。
- 毎朝の朝練は4kmマラソン。
- 夏休み・冬休みは基礎練習を約2時間。
- 休憩時間10分以外は飲み物を飲めない。
- 100本連続レイアップが決まらなかったら1本目からやり直し。
最初は30人くらいいた同級生も半分以上が辞めて、残ったのは15人弱。
僕自身も汗だくになって死にそうな毎日を過ごしていました。
でも、不思議と辞めたいと思ったことは一回もありませんでした。
基礎練習はしんどくて何度も倒れそうになったけど、体力ついたり出来ることが増えたりすることが嬉しかったし、なによりバスケ部メンバー同士の仲がとても良かったので、純粋に部活が楽しかったんです。
走りまくっていたおかげで、1年生のときは7分50秒くらいだった1.5kmマラソンのタイムが、3年生のときは5分47秒まで縮めることができました。
風邪引いたときを除けば3年間で1回も練習をサボらず、2年冬のときはスタメンを勝ち取ることもできました。
ただ3年夏の最後の大会はスタメン落ち。
これまでにない悔しい思いもしました。
小学校のとき、何も運動してなかった僕があれだけ苦しかった部活をやり切ったこと、バスケ初心者だったのにスタメンを勝ち取れたことはとても嬉しかったし自信になりました。いま思い返せば、自分の人生にとって最高の経験だったと思います。
3年夏。部活が終わって、受験勉強スタート。
僕の弱点は、当時の理科1分野。
毎回、定期テストの点数が50点以下で、一番ひどいときは30点前後と、とにかくどうしようもない状況でした。
さすがにこのままではマズイと思い、夏から塾を変えて夏期講習で猛特訓。
そのおかげで、夏休み後の定期テストでは、はじめて理科1分野で78点を取ることが出来たのです。
あれだけ苦手だった理科1分野の得点を押し上げることができ、ここでついた自信を大切にして勉強を続けた結果、無事第1希望の地元の進学校に合格することができました。
高校の校庭に貼ってあった合格者一覧から自分の名前を発見したときの喜びは今でも忘れられません。
また、いまでも大好きなB’zの音楽との出会いも中学生のとき。
給食のときに流れてきた音楽を聴いて「めちゃくちゃカッコいい!」と衝撃が走りました。
友達に「これ何て曲か知ってる?」って聞いたら、「愛のままに~っていうとにかく長いタイトルの曲」って教えてもらって、学校が終わった後、近所のCDショップに猛ダッシュ。
そこで、「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」のCDを見つけて、「これだーーーー!!!」と大興奮。
一緒に並んでいた「裸足の女神」とセットで即購入。
何度も何度もリピートして聴いていました。
42歳になった今もB’zが大好き。こんなに長い付き合いになるとは思ってもいませんでした笑
部活。受験勉強。B’zとの出会い。
とても楽しくて充実した中学校生活でした。
高校時代
高校は地元の進学校に入学。
部活は、中学校の延長でバスケ部に入部したのですが、新しいことをやってみたい気持ちも生まれて、1年夏に退部。
その代わりに1年秋からハンドボール部に入部しました。
そのハンドボール部も1年続けた2年秋に退部。
3年生になってから、大学受験に向けた勉強に集中するようになりました。
「大学受験は1日8時間の勉強が必要」。
なぜか、この言葉が僕の頭の中でぐるぐる回っていて、夏休み、冬休み、休日は、8時間以上、近所の図書館や予備校、高校の補講などで勉強しまくる日々を過ごすように。
- 8時間の勉強時間を切ったら合格できない。
- まわりに置いていかれるから勉強しなきゃ。
もちろん大学受験に合格したい思いもあったのですが、それよりも世の中で言われていることやまわりの動きばかり気にして勉強していたような感じです。
言い換えれば、”高校の次は大学に進学しなければならない”といった義務感や責任感に捉われて勉強していました。
合わせて、浪人することへの抵抗感もすごく強かったです。
- 親に迷惑かけてしまう。
- 浪人したら1年出遅れてしまう。
- もうこの辛い受験勉強をしたくない。
勝手に自分で自分を追い込んで、どんどん辛くなっていきましたが、なんとか最後まで気力を保つことができ、無事、第一志望の地元の大学に合格。
ようやく受験勉強から解放される、、嬉しさよりもホッとした気持ちでいっぱいでした。
中学時代と違って、ほとんど思い出のない高校時代でしたが、唯一楽しかったのが、自分の好きなアーティストのライブに参加しまくっていたことです。
相川七瀬、GLAY、EveryLittleThing、夏フェス、、
中でも、大好きだったB’zのライブに高2のときに初参加!
- 今までCDラジカセ越しに聞いていた曲をリアルに聴けることの感動。
- 最初から最後までステージ中を走り回る稲葉さんのパワフルな動き。
- 会場の一体感と盛り上がり。
生のB’zはカッコよすぎて鳥肌が立ったのを今でも覚えています。
ライブに参加して以来、さらにのめり込んでいって、どんどん好きになっていきました。
今年でファンクラブ23年目。今でもライブがある年は、毎回4会場ほど全国各地のライブ会場に飛び回っています。
大学時代
大学では情報科学を専攻。
高校時代の苦しい受験生活から解放されて、楽しい大学生活を満喫します。
これまでやってきたバスケは、学外の社会人サークルに混ざって活動。
大学に入ってアルバイトもスタート。
- 某スーパーで3か月。
- 某引っ越し業者で3日。
- 某牛丼屋で大学院2年生までの5年間。
特に、某牛丼屋のアルバイトは仕事が楽しかったのはもちろん、良き人間関係に恵まれてアルバイトというよりはサークル活動に行くような感覚。
アルバイト以外の時間でも一緒に時間を過ごすことが多く、大学時代の多くの時間を過ごしていました。
単位も順調に取り、バスケサークル、アルバイトと充実した大学生活を過ごす中、3年生の冬、”大学院進学”、”就職活動”の進路選択に迫られました。
- 大学院修了の方が良い就職先に就職できるかも。
- いま、就職氷河期だから時期をずらした方が良いかも。
- もう少し遊びたい笑
そんな理由から大学院への進学を選びました。
大学院時代
大学の延長線上で、情報系大学院へ進学。
気楽な気持ちで進学した大学院でしたが、大学時代と180度変わって、朝から晩まで研究三昧のめちゃくちゃ忙しい時間を過ごすことになります。
研究内容は、当時、世の中であまり実績のなかった分野の研究。
研究室の教授から、「前例ないからチャレンジしてみよう」と言われたことがきっかけでした。
何気ない気持ちで「やってみるか」と思ったのが不幸?の始まり。
この研究が想像以上に大変で苦しかったです。
前例がないので、先人の研究結果や論文を参考にすることもできず、一からプロセスを考えてプログラムを組んで、検証を繰り返す必要がありました。
でも、僕自身、大学時代に情報を専攻していたにも関わらず、プログラミングが大の苦手だったので、思うように前に進みません。
1週間に1回の研究報告ゼミでは、苦し紛れの言い訳のオンパレード。
まわりの同級生が次々、研究成果を出して学会発表や論文投稿を進めていく中、自分だけ何も出来ていない状況に焦りまくっていました。
- 「なんとかしなきゃ」と焦る気持ちから、大好きなバスケサークルやアルバイトの時間を諦めて研究に集中。
- アルバイトが出来ないので、昼と夜はカップラーメンを買ってきて研究室で食べる。
- 運動もしないでパソコンとにらめっこの毎日で体重も増量。
完全に悪循環。
それなのに、肝心の研究成果はまったく出ず、やりたいこともできず、とにかくストレスフルな毎日、、
そんな毎日に嫌気がさして、何度も大学院やめたいって思いました。
大学院から逃げ出すために公務員試験を受けようとして、受験予備校に20万円もの大金をつぎ込んだことも。
でも、ネガティブな目的から始まった公務員試験の勉強に興味も湧かず、1ヶ月であっさり挫折してしましました、、
結局、大学院をやめる勇気もなく、なんとかギリギリの状態で持ちこたえる毎日。
とにかく、先の見えない日々を過ごしていました。
そのガマンが実を結び、大学院1年生が終わる頃、ほんの小さな結果を出すことに成功しました。
正直、心がホッとしました。
ようやく、少し前に進んだ気がする、、
これでゼミで言い訳しなくてよくなる、、
1年間、悩み苦しんだことが少し報われた気がしたのです。
そして、大学院2年生。
遅ればせながら、ついに学会発表のデビューが決まります。
舞台は、国内をすっ飛ばしてまさかの国外。
韓国で開かれた国際学会に参加することになりました。
はじめての学会にも関わらず、いきなり英語での論文寄稿・発表をすることになったのです。
まったく英語はできなかったので、翻訳機能を使って日本語を英文にしたり、質問内容を想定して英語で解答を作ったり、慣れない作業に四苦八苦の毎日。
そんな準備のおかげで、発表当日をなんとか乗り切ることができました。
その後は、日本の国内学会での発表や論文寄稿。海外の論文寄稿を継続的に実施。
貴重な経験もさせてもらいました。
1年の冬から就職活動もスタート。
大学時代は、まったく就職活動をしていなかったので、はじめての就職活動でした。
まわりの同級生は就職活動に億劫な感じだったのですが、僕は、はじめて社会と接点が持てること、東京や大阪といった新しい土地へ行くことがプチ旅行みたいで楽しかったです。
なにより、研修室にこもっていた日々から外に出れるチャンスだったので、自分の心身をリフレッシュする良い機会になりました笑
就職活動先は、プログラミングが苦手だったにも関わらず、
- これからの時代、情報の知識や経験は大切なのでは。
- 情報系大学院に進学したから情報系企業の方が良いのでは。
- プログラミング以外の情報分野ならば、なんとかなるのでは。
などの理由から、情報業界を中心にエントリー。
就職氷河期の中、最終的に4社から内定をいただき、うち「東京のIT会社」「大手情報通信会社」の2社から就職先を決めることに。
悩んだ結果、
- 大企業で働きたい。
- 地元に戻ってこれる可能性がある。
- 社会に影響を与える大きな仕事がしたい。
この3つを決め手に大手情報通信会社への入社を決めました。
修了論文の提出も無事終了。
なんとか大学院を修了することができました。
社会人1年目~(広島)
社会人1年目は縁もゆかりもない広島支店に初期配属。
親元を離れて寮生活での社会人生活がスタートしました。
はじめての仕事。はじめての土地。はじめての一人暮らし。
何もかもはじめてのことだらけで、とにかく余裕のない毎日でした。
仕事でクタクタになって家に帰ってきても、家の中は真っ暗。音も光もない。お風呂も沸いていなければ、ふとんのセッティングも自分。
玄関を開けたとたん、さみしい気持ちになることもしょっちゅうありました。
これまでは、家に帰ってきたら母親が「おかえり」と言ってくれる。ごはんがある。お風呂が沸いている。洗濯や掃除もしてくれる。
これが当たり前だと思っていたし、疑ったこともありませんでした。
でも、実家から離れてはじめて、今まで当たり前と思っていたことが当たり前じゃないことに気づきました。
なんて贅沢で有難い環境だったんだろう、、
自分で経験してはじめて分かることだらけ。
改めて、両親への感謝の気持ちが沸いてきました。
仕事は、お客様のシステムやネットワーク環境の提案、構築、保守運用業務。
いわゆるシステムエンジニア職です。
大学で情報を専攻していたにも関わらず、社内やお客様との間で飛び交う会話は分からないことだらけ。
そこで試みたのが資格の勉強です。
当時の僕は、「資格の勉強をしてきちんと勉強すれば仕事が出来るようになる」と思い込んでいたので、情報処理に関する国家資格や民間資格、ベンダー資格、とにかく仕事に関係しそうな資格の勉強を手あたり次第しまくっていました。
でも、いくら資格の勉強をしても仕事が出来るようにはならないし、会話が出来るようにもならない、、
なかなか新しい仕事に慣れず、少しパワハラ気味の先輩に怒られる日々。
自分の不手際が原因でお客様の大切なシステムを止めてしまったこともありました。
全然できることが増えないし、どれだけ勉強しても実践で活かせない。
ストレスが溜まって白髪が出来たり、じんましんになったりしたこともありました。
「もうシステムエンジニアは嫌だ」
自分から希望して飛び込んだ情報通信業界だったのですが、たった2年で自分はシステムエンジニアは向いていないと思い、「次の異動先ではシステムエンジニア職以外でお願いします」と、異動面談のときに声を大にして伝えていました。
嫌で嫌で仕方のなかったシステムエンジニアの仕事でしたが、この2年間の現場で培った経験や知識、情報処理業界の特徴、お客様との折衝などが、約12年後の転職先で活きることになります。
社会人3年目~(愛知)
はじめての異動で地元愛知へ。
会社へは実家通い。1人暮らしのときと違って、健全な食生活、精神的な落ち着きを取り戻すことが出来ました。
次の仕事は、これまでのシステムエンジニア職からガラッと変わって、組織設計、人員配置、社員研修、採用活動といった社内業務に関わることになります。
異動面談のときの熱量が伝わったのかどうか分かりませんが、無事、システムエンジニア職から逃げることができました笑
この愛知での2年間、ワードの報告書、エクセルの集計作業、パワーポイントの資料作成など、Office製品の基本的な使い方から始まり、経営者や社内説明向けの資料の作り方、社内調整、スケジュール管理をみっちり叩き込まれます。
入社3年目にも関わらず、経営に近い業務に就けたのはとても有難い経験となりました。
また、自分のキャリアについて考えることも多かったです。
当時の僕は「キャリアアップ=資格を取る」の固定概念が強く、さらに世でいう難関資格を取ればキャリアアップできると勝手に思い込んでいたので、税理士や行政書士といった業務にまったく関係のない資格に興味を持ちました。
でも、実際に勉強を始めてみると、
- 日々の業務と関わりがないのでモチベーションが湧かない。
- 資格を取った後、どうやって資格を活かせばいいのかイメージが湧かない。
- 資格ガイドに書いてあるような年収がほんとに手に入るのか想像もつかない。
と、特に明確な目的もなく、なんとなく始めた勉強だったので、両資格とも1ヶ月も経たないうちにあっさり挫折。
受験予備校に注ぎ込んだ計30万円ほどの高い受講料をドブに捨てることになります。
また、目先の甘い言葉にフラフラすることが多く、投資で200万円を失う経験も。
実家通いにも関わらず、自分の懐の甘さのせいで、どんどんお金がなくなっていきました。
資格の勉強の挫折、投資の失敗。
高い授業料でしたが、この経験のおかげで、”甘い誘惑に良き話はないこと”、”目的があいまいだと何も続かないこと”、”自分で目利きする知識を身につけること”の大切さを学ぶことができました。
社会人5年目~(大阪)
大阪本社勤務。
広島時代は寮。愛知時代は実家通い。大阪では、はじめて賃貸物件を借りて一人暮らしを経験しました。
主なTOPIX
- 新規プロジェクトチームに配属
- 中小企業診断士資格へのチャレンジ
新規事業プロジェクトチームに配属
全社の新規事業を推進していくプロジェクトチームに配属となり、ベテラン営業の先輩と2人1組になって新規顧客を開拓していく業務に就きました。
この経験で痛感したことは、
「自分はお客様とまったく話せず、ビジネスのことが全然分かっていない」
ということでした。
- ここをもうちょっと教えてほしい。
- ほかの会社さんはどう?
- 業界はどんな動き?
お客様との商談では、事前に準備した提案書をベースに、通り一辺倒の説明はできるのですが、お客様からちょっと質問されただけで、あたふたして何も答えることができなかったのです。
心の余裕もなく、新規顧客開拓のミッションがあるにも関わらず、早くこの場が終わってほしい一心。
とても営業活動に来ているようには見えず、会話も続かずに場の雰囲気は重たくなるばかり、、
そんな商談を何度も繰り返していました。
ところが、先輩は違います。
お客様から何を聞かれても次々と答えていきます。
時折、雑談も冗談も混ぜて、お客様の顔も緩み場の空気も和やかに。
僕と話しているときと先輩と話しているときとでは、まるで違うお客様の顔や態度。
そんなシーンを目の当たりにするのがつらくなり、上手くいかない日々に悩みまくって、だんだんアポを取るのが嫌になってきました。
それでも、新規顧客開拓がミッションなので、なんとかしないといけない、、
でも何をやったらいいのか分からない、、
もう自分一人ではどうしようも出来ず、勇気を出して先輩に聞いてみました。
「どうやったら、先輩みたいにお客さんと話せるようになりますか?」
すると、
「自分も最初は全然話せなかった。めちゃくちゃ悔しかったから、たくさん勉強してセミナーにも参加して、休日も社外の人と交流して知識や人脈を作ることに力を注いだよ」
頭をガツンと殴られた感じでした、、
なんでも出来る先輩にも出来ない過去があって、出来ない状況を克服するために、こんなにも努力を重ねていたなんで想像もできなかった。
「自分は出来ないことだけ悩んで、出来るようになるための努力をなにもしていなかったな、、」
自分のことが情けなくて恥ずかしくて不甲斐なくなりました。
その日を境に、自分自身の考え方や行動を改めました。
- 自社の関連商材の知識を身につける。
- 専門誌を買って専門知識を身につける。
- インターネットから競合他社情報を調べる。
- 先輩とお客様の会話をQ&Aにまとめてノウハウ集を作成。
これまで何もやってこなかった自分に反省して、無理せず少しずつやれることをやっていくように。
すると、いままでまったく分からなかったお客様や先輩の会話が少しずつ分かるようになったり、わずかでもお客様との会話のキャッチボールができるようになったりしたのです。
これまでは、「もう話さないで」「早く商談が終わってほしい」。
そんな後ろ向きな気持ちでしたが、お客様との会話が続いたり、自分の言ったことにお客様が良い反応を示してくれたりすると、自分自身、安心するし前向きな気持ちになれました。
少しでも出来ることをやれば、少しずつでも現実は変わる。そんなことを身に沁みて実感しました。
結果、商談も良い方向に進むことが多くなり、少しずつ手応えを感じていくことが出来るようになったのです。
中小企業診断士資格へのチャレンジ
いろいろな業界・業種のお客様とお会いしていく中、「ビジネスのことをもっと学びたい」「社外の人との交流を持ちたい」と思うようになりました。
何か良い手段はないものか、、
そう思っていたとき、本屋の資格コーナーで見つけたのが「中小企業診断士」というパンフレット。
中小企業診断士の資格は国が認めた唯一の経営コンサルタントの資格。
パンフレットを見ると、「ビジネスを体系的に学べる」「社外人脈ができる」「副業ができる」。
なんとも魅力的なキャッチフレーズがたくさん並んでいました。
「これだっ!!」
キャリアアップを目指したいときは、資格に目がいく。
いつもの自分とまったく変わらない動き、さすがに自覚していました汗
でも、これまで資格取得に飛びついたときと比べて、なんとなく違った感覚だったのです。
- 大学院時代、公務員試験に飛びついたときは、目の前の研究から逃げたかったから。
- 広島時代、情報処理系の資格を勉強したときは、目の前の業務に迫られて「勉強しなければ」といった義務感から。
- 愛知時代、税理士や行政書士の勉強をしたときは、難関資格を取れば年収が上がると単純に思ったから。
振返ってみると、どちらかといえば、ネガティブであいまいな目的ばかりでした。
でも、診断士の資格に出会ったとき、
- いまの業務で感じている悩みを解決できそう。
- 愛知のときに経験した仕事から経営の勉強をしたい思いがあった。
- 勉強内容そのものが楽しそう。
いまの業務内容にも将来の自分のためにも、間違いなく役に立つ。
そんな直感が働いたのです。
自分の中のワクワク感を抑えることができず、迷わずこの資格を目指すことにしました。
このとき、12月。
実は2か月前に入籍したばかりの新婚ホヤホヤの時期でした。
中小企業診断士の資格の平均勉強時間は約1,000時間。
しかも1,000時間勉強したから合格できるという保証はどこにもありません。
「反対されるだろうな、、」
そんな気持ちを持ちながら、おそるおそる妻に切り出したところ、妻から予想もしなかった一言が。
「いいんじゃない。やりたいなら、やったら」
反対どころか、サラッと背中を教えてもらえました。
このとき背中を押してもらった妻には感謝の気持ちしかありません、、
妻のためにも絶対1年で勉強を終わらせる。
そう心に決めて、資格の勉強を始めました。
このときは分かりませんでしたが、後にこの資格のおかげで人生のどん底から救われて、転職、副業、開業届と、大きく人生を変えていくことになります。
社会人7年目~(愛媛)
海を渡り、愛媛県に足を踏み入れました。
四国はこれまでプライベートでも来たことがなかったので、はじめての土地でした。
主なTOPIX
- 中小企業診断士の資格に10ヶ月ストレート合格
- 中小企業診断士としての活動スタート
- 仕事が楽しく最速出世を果たす
中小企業診断士の資格に10か月ストレート合格
はじめての土地。新しい職場や人間関係。
目の前の仕事や環境に慣れることでいっぱいいっぱい。
最初の1週間は、ビジネスホテル住まい。
着任週末の土日でバタバタと賃貸物件を探し回り、その日曜日に一気に契約して翌週に入居。少しずつ家具を揃えたり、荷物を整理したりして身の回りを整えていきました。
このとき、とても不安だったのが昨年12月から始めた中小企業診断士資格の勉強です。
愛媛に転勤してきたのが7月。
中小企業診断士1次試験は8月。
試験まで、あと1か月。
1次試験直前の大切な追い込み時期なのに、新しい仕事や環境に慣れること、住居を整えることに必死で、一気に勉強量が落ちました。
「合格できるのかな、、」
試験日が近づいてくる中、思ったように勉強できずに焦る日々。
自分の中の弱気な気持ちに何度も押しつぶされそうになりました。
でも、これまでの12月~6月の7か月間、必死に勉強を続けてきたのに、たった1か月勉強できなかっただけで諦めるなんてもったいない。
診断士資格の試験は年1回。
自分から受験機会を手放して、また1年頑張るなんて気力が持たなかったし、1年後も万全の状態で迎えられる保証もない。
なにより、勉強をスタートしたときに「1年で終わらせる」と決めた自分との約束を破るようでイヤでした。
- 自分から勝手に諦めるな。
- 諦めなければ何が起こるか分からない。
- 1日10分でもいいからとにかく勉強続けてモチベーション保つ。
こう自分に言い聞かせて、なんとか7月を乗り越えて、8月の本試験にたどり着くことができました。
結果、合格ライン420点に対して429点で合格。
なんと奇跡は起きたのです!
1次試験、無事合格できてホッとしたのも束の間。
2か月後の10月には診断士試験最難関と言われる2次筆記試験が待ち構えていました。
これまで1次試験の勉強に集中して、2次筆記試験の勉強はまったくしていなかったので、2ヶ月で挽回できるのか、、と不安でいっぱいでしたが、1次試験のときに味わった「諦めなければ何が起こるか分からない」を大切にして、毎日コツコツ勉強を継続。
結果、2次筆記試験も一発合格。
この流れに乗って、12月2次口述試験、翌年2月~3月の実務補修も無事終了。
4月に晴れて中小企業診断士の合格証を手にすることができました。
やすの中小企業診断士関連コンテンツ
僕自身の中小企業診断士の受験体験記、これまでの受験生サポート・2次試験論文添削の経験を踏まえた1次試験・2次試験の最短攻略法をnoteにまとめています。
やすの診断士受験体験記
僕がDVD通信講座で中小企業診断士試験に10ヶ月830時間の勉強でストレート合格を果たした際の受験体験記を書いています。
一個人のリアルな受験体験談を知りたい人は、ぜひお読みください。
1次試験の最短攻略法
1次試験をとことん効率的に短期間で合格するための「基本的な戦略や考え方」を身につけることを目的としたコンテンツです。
1次試験はとにかく出題範囲が広いことが特徴です。そのため、1次試験合格に直結した勉強に絞って効率よく勉強を進めていくことが大切です。
2次試験の最短攻略法
2次試験合格に不可欠な「基礎力」を徹底的に磨くことを目的としたコンテンツです。
2次試験は掴みどころのない勉強しにくい試験ですが、その本質を理解すれば学習方法に迷わなくなり、短期合格が目指せる試験です。
中小企業診断士の資格は、合格のツボを押さえて勉強すれば短期合格が狙える資格です。
- 診断士資格に短期合格したい。
- 何回受験しても合格できない。
- ストレート合格した秘訣を知りたい。
そんな方はぜひ参考にしてください。
中小企業診断士としての活動スタート
「受験体験記を書いてもらえませんか?」
診断士の資格に合格した後、通信講座を受講した受験予備校から1通のメールが届きました。
- 自分の受験体験記がほかの誰かのお役に立てるならば。
- 必死になって駆け抜けた10ヶ月を振り返る機会にもなる。
- 診断士受験を目指した「執筆」の経験が積める。
そんな思いで、即「お願いします!」と返信。
自分なりの思いや経験を詰め込んだ受験体験記を書き上げて、後日、受験予備校のWEBサイトに自分の記事が掲載されました。
「自分はほんと診断士試験に合格できたんだな」
WEBサイトの記事を見て、なんだか感慨深い気持ちになりました。
そして、受験予備校から謝礼金の振込。
これが、僕にとって初めて会社の給料以外で稼いだお金です。
会社の看板で稼いだお金でなく、やす個人として稼いだお金。
会社からの給料と違って、ものすごい重みを感じました。
いまでもあのときの感動は鮮明に覚えています。初心忘るべからず。。やすの副業の原点です。
その後も模試の作問や専門誌への寄稿など、有難いことに継続して執筆機会をいただくことができ、少しずつ実績を積んでいくことができました。
また、診断士としての活動を増やすべく、愛媛県の中小企業診断協会にも入会。
こうして本業+診断士の2足のわらじ生活を歩み始めたのです。
仕事が楽しく最速出世を果たす
愛媛支店では、大阪本社時代に全社事業として立ち上げた新規事業を、四国4県で推進するリーダー役のポジションに就きました。
愛媛時代の2年間は、1週間のうち2~3日は日が変わる直前まで仕事していたことや土日に家で仕事していたことも。
僕の17年間の社会人生活の中で一番仕事に明け暮れていたときだったと思います。
まわりからは業務量の多さや忙しさに大丈夫?と心配されることも何度もありましたが、とにかく仕事が楽しくて目の前の業務に夢中になっていました。
社内の雰囲気もとても良くて、お互いがお互いを助け合う温かい人たちばかり。
そんな素敵な環境や人に恵まれた中、がむしゃらに仕事を頑張った結果、本社社長表彰の受賞にまで至りました。
愛媛支店内で最高の評価をいただき、ボーナスも過去最高。
愛媛着任から2年後、最速出世で大阪本社への異動が決まりました。
プライベートでは、これまで来たことのなかった四国4県を満喫。
ちょっと足を伸ばして、広島や九州地方にも出かけることもしばしば。
はじめて四国に来たときは不安な気持ちも多かったのですが、振り返ってみれば公私ともに充実した最高の2年間を過ごすことが出来ました。
社会人9年目~(大阪)
愛媛で最高の実績を残した後、ふたたび大阪本社へ異動。
愛媛時代の勢いそのままに、、
というわけにはいかず、これまでの人生で一番の挫折と苦しみを味わうことになります。
主なTOPIX
- パワハラ上司に怯える日々
- 1回目の転職活動
- 中小企業診断士の勉強会への参加
- どんどん社外活動を広げていく
- 同社で頑張ることを断念
- 2回目の転職活動
- 退職
パワハラ上司に怯える日々
社員数20,000人を超える社内でも超有名なパワハラ上司の下で働くことになりました。
- 何を言っても否定。
- 人格否定は日常茶飯事。
- 顔を見て話してもらえない。
- スケジュールを確保しても後回し。
- 資料を投げ捨てられることはザラ。
毎朝、オープンスペースで30分のチームミーティングがあったのですが、フロアに響き渡る声で罵声の嵐。
ほかの社員も関わりたくないと言わんばかりに見て見ぬふり。
愛媛時代はあんなにも仕事が楽しくて、前向きに頑張っていたのが嘘のよう。
毎日ネガティブな気持ちで下ばかり向いたどんよりした日々を過ごしていました。
とにかく、パワハラ上司に怯えて、パワハラ上司が席にいるだけで心が張り裂けそうになっていたので、まともなコミュニケーションを取ることもできず、どんどん悪循環に陥る毎日でした。
同じ仕事をやるにしても、環境や人が違うだけでこうも変わるものなのか、、と思い知らされました。
そして、1年ちょっと経った頃、自分の心身や行動に異変が起こり始めます。
- 朝、玄関を開けるのがつらい。
- 会社の最寄り駅で降りたくない。
- オフィスのドアを開けるのがつらい。
- 夜の寝つきが悪くなる。
- 夜中に何度も目が覚める。
- 休日もリフレッシュできない。
- なにをやっても仕事のことが頭から離れない。
自分の体調は明らかにおかしくなっている、、
このまま過ごしていては、いつかこわれてしまう、、
それなのに、自分から会社を休むことも、ほかの誰かに相談することもできませんでした。
パワハラ上司から怒鳴られていることをすべて自分のせいだと思い込んでしまい、さらに仕事から逃げるなんて絶対にダメという強力な固定観念があったからです。
いまにも壊れそうな自分の心身を責任感と気合いだけで耐える日々。
生きてる心地がしませんでした。
1回目の転職活動
「いまの環境から逃げたい、、」
そんなネガティブな気持ちで始めたのが1回目の転職活動。
日々の仕事と落ち込んだ精神状態の中で転職活動をするのはかなり辛かったのですが、とにかく今の環境から逃げたい一心で必死でした。
そして、これからも情報通信業界で頑張り続ける自分がイメージできなかったので、いまの業界、職種とは異なるチャレンジをしたいと考え、異業界、異なる職種へのエントリーをしました。
でも、そんなに世の中甘くありません。
このとき34歳。
- いまの会社で頑張った方がいいんじゃないですか?
- いまの会社規模と給料を考えたら転職する理由なんてあるんですか?
- 未経験の方で30過ぎはちょっと、、
書類選考は落ちまくり。
ようやくたどり着いた面談でも厳しい言葉をかけられることも多々ありました。
それでも諦めず、書類を送る日々。
面談のために半休や有休を取って新幹線で東京と大阪を往復する日々。
ときには節約のために、夜行バスで帰ってきて翌朝会社に向かうこともありました。
毎日心身ボロボロでお金の面でも苦しい時期が続きましたが、そんな努力が実を結び、25社へアプローチしたうち、2社から内定をもらうことができたのです。
「よし!やっと転職できる!いまの環境からも逃げ出せる!」
そう思ったのもつかの間、、
せっかく内定をもらったのに、転職に踏み切ることができませんでした。
転職に踏み切れなかった理由
- パワハラ上司に言うのが怖かった
- 両親から猛反対された
- 自分のプライドや見栄を手放せなかった
①パワハラ上司に言うのが怖かった
単純にパワハラ上司に切り出せませんでした。
- なんて言われるだろう、、
- 怒られたくない、、
- コミュニケーションしなければいけない、、
とにかく怖くて怖くてどうしようもなかったのです、、
②両親から猛反対された
両親に内定をもらって転職したいことを言いました。
両親だけは味方になってくれる、、そう信じていたのですが、まさかの大反論。
- せっかく大企業に入ったのにもったいない。
- どこの会社に行っても人間関係の悩みは出る。
- 異動したらいまのパワハラ上司と離れることができる。
自分の心に余裕のなかった僕は、「なんで反対されなきゃいけないんだ!」「いまの僕のつらい気持ちも知らないくせに!」と八つ当たり。
話し合いどころか、一方的なケンカ別れとなりました。
③自分のプライドや見栄を手放せなかった
このころの僕は大企業で出世していくことが会社員としての成功という強い固定概念がありました。
そのため、いまの環境を手放すことができませんでした。
自分の気持ちよりも、まわりから自分がどう見えているか、、
そんなことばかり気にしていたのです。
中小企業診断士の勉強会への参加
日々の会社生活は辛く、転職も勇気が出なくて踏み出せない、、
益々気持ちが沈んでいって、自暴自棄になりかけていきました。
「このままじゃ、ほんと自分ダメになる、、どうしたらいいんだ、、」
どうしていいのか分からず、八方ふさがり。
心底弱っていたとき、副業で所属していた中小企業診断士コミュニティの先輩から一通のメールが届きました。
愛知県で診断士2次試験受験生向けの企画をしてるんだけど、参加してもらえないかな?
「あぁ、そうか、、もうこんな時期なんだ」
地元開催だし、気分転換にもなると思い、参加することにしました。
自分も受験したからこそ分かる受験生の気持ち。
この時期、不安だらけの受験生のために少しでもお役に立てる資料を作りたい。情報を届けたい。
そんな思いで自分のパートの資料作成をスタートしました。
すると、ここ1年ほど、何をやっていても仕事やパワハラ上司のことが頭から離れなかったのに、勉強会の準備をしているときは、仕事から自分を切り離すことができたのです。
自分のやりたいことに集中している時間。
ひさしぶりに味わった感覚でした。
そして、勉強会当日。
- 受験生との模擬面談。
- 自分の受験体験談の話。
- 当日に向けたアドバイス。
- 「絶対合格するぞ!」の一本締め。
おかげさまで勉強会は大盛況で終えることができました。
愛媛にいたとき以来に味わった充実感や達成感。
会社でため息ばかりの日々を送っていた僕が、ひさしぶりに笑顔で人と話をした気がしました。
そして、勉強会が終わった帰り道。
なんと参加者の1人が同じ会社の人だということが分かったのです。
僕「勤務地はどこなんですか?」
参加者「大阪です。今日大阪から来たんですよ」
僕「えっ?僕も大阪から来たんですよ」
参加者「そうなんですか!?どこの部署ですか?」
世間は狭いとはこのこと。まさか、診断士勉強会で同じ会社の人。さらに愛知にいるのに大阪勤務の人と会えるとは夢にも思っていませんでした。
翌朝、昨日の御礼をすべく、会社の社員検索システムで探すとヒット。
なんと役職は某大規模支店の部長職。自分が普通に働いていては接する機会のない相当偉い人だったことが分かりました。
「えっ!?僕、アドバイスを送ったり、応援しています!なんて言ったりしちゃったぞ!?大変なことをしてしまった、、」
真っ青になりました、、
その部長に昨日の御礼と失礼のお詫びのメールを即送付。
なんて返ってくるだろう、、
いや、返信すらないかもしれない、、
心臓がドキドキした状態のまま10分ほど経過。
なんと部長から返信がありました。
「なんて書いてあるだろう、、」
恐る恐るメールの内容を確認。
すると、
「昨日はありがとうございました。やすさんの受験談や模擬面談でのご指摘、ほんとに有難かったです。おかげさまで本番の口述試験に自信をもって挑めそうです。ありがとうございました」
僕の考えていたこととはまったく真逆。
たくさんの感謝の気持ちを伝えていただいたのです。
自分の経験を誰かに伝えて感謝してもらったはじめての経験だったかもしれません。心がホッとして、ほんわかした温かい気持ちになりました。
さらにメールを読み進めていくと、「本番の口述試験が終わったら、ぜひ飲みに行きませんか?」とお誘いまでいただいたのです。
そして、1か月後の口述試験が終わった後、その部長と1対1で飲みに行きました。
出会いが社内でなく勉強会という外の場だったので、なぜか社内の人という感じがしませんでした。
とても穏やかな笑顔。やさしい口調。
自分のことを見ながら話をしてくれるし、自分の話を真剣に聞いてくれる。
同じ会社なので、社内の話も通じ合うし、さらには「診断士」という共通のキーワードがあったので、どんどん心が和らいでいきました。
そして、その部長のお人柄に甘えてしまい、同じ社内の大先輩にもかかわらず、いま自分がパワハラ上司に悩んでいて、人生悩み果てていることを打ち明けてしまったのです。
すると、
「そんな上司の言うことは真に受けなくていい。僕は2次試験の勉強会でやすさんと話をさせてもらったけど、素晴らしいと思ったことがいっぱいあったよ。ぜひ、いまのやすさんを大切にしてほしい」
涙が出るほど嬉しかった、、
ここ1年、毎日人格否定、罵声の嵐で自分の存在価値なんてないって本気で思っていた僕にとって、自分の存在を肯定してもらえるストレートな言葉が心の底から嬉しくて、心に沁み渡りました。
そして、最後に「僕の知り合いの診断士の先輩がやっている勉強会があるんだけど、一緒に参加しない?」とお誘いをいただいたので、「ぜひ、よろしくお願いします!」と即答しました。
診断士勉強会への参加、社内部長との出会い、新しい勉強会へのお誘い。人からもらったご縁や小さな行動を大切にしていくことで、新しい機会に恵まれていくことになりました。
どんどん社外活動を広げていく
後日、部長に紹介してもらった診断士2次試験受験生向けの勉強会に参加しました。
自分は講師役として以下を担当。
- 過去問の解説講義。
- 受験生の論文添削。
- 受験生からの質問回答。
勉強会の時間は自分の経験や知識をフル活用できたので、ほんとに楽しくてやりがいにあふれていました。
なにより大きかったのは、
- 自分がほかの誰かのお役に立てている。
- 自分の存在を必要としてくれている人がいる。
- お互いに励まし合いながら共通の目標に頑張っていける。
- 1人の人として会社の肩書関係なくフラットに接してもらえる。
こんな心の充実感を得られたことです。
会社で自信喪失に陥っていた自分の自信や居場所を取り戻すことができた感覚。生きている心地がしました。
そして、何回も勉強会に参加しているうちに、勉強会の代表が主催している別のセミナーや懇親会にも誘っていただけるようになりました。
- 中小企業診断士の先輩。
- 独立している方。
- 他士業の方。
- 他の会社に勤めている方。
など、様々な業界、業種、年齢、働き方の人との交流が一気に広がりました。
新しい交流から生まれたご縁をきっかけに、別の交流会やイベントへのお誘い、新しい副業の機会、100名超の診断士向けセミナーの企画運営といった機会をいただくことができ、どんどん中小企業診断士としての活動の幅が広がっていったのです。
さらに、東京で気になった研修があった場合は、交通費や宿泊費を惜しまずに参加するようにしました。
(このときの行動がきっかけで、後に東京の企業に転職した際、当研修の代表からデュアル勤務先のご紹介をいただくことになります)
中小企業診断士資格は、自分から行動していけば自分の世界が広がっていく機会に溢れた夢のある資格。家と会社の往復だった人生を変えていくことができました。
社内では、どうしても役職、年齢、部署などを気にして遠慮がちな会話ばかりだったのですが、社外の人たちと話すときは、役職、年齢など関係なくフラットに話すことができ、とても居心地が良かったです。
そして、
- いまのありのままの自分でいいんだ。
- いまの会社の常識が世間の常識じゃないんだ。
- いまの会社でダメと言われていることが社外で認められることがあるんだ。
社内で否定され続けてきた自分の存在を認めることができるようになりました。
なにより、
「いまの会社で頑張る以外の道があってもいいんだ」
こう思い始めてきました。
これまでの僕は、「社会で成功すること=大企業で出世すること」の概念が強く、自分の人生は社内出世の一本道、と疑ったこともありませんでした。
”違う道があってもいい”。
このことを知って、心が楽になり、自分の価値観や考え方が少しずつ変わっていきました。
そして、
- 自分のやりたいことを見つけたい。
- もっと自分の可能性や世界を広げたい。
- 会社以外のサードプレイスを増やしたい。
- 個で戦っていける経験やスキルを身につけたい。
などの思いが強くなり、診断士活動と並行して行ったのが「自己投資」。
計200万円を投じて、3つのコミュニティに飛び込みました。
会社員の”やす”ではなく、個の”やす”としてパワーアップしていくことを意識して、自分の行動や考え方を変えるようにしました。
同社で頑張ることを断念
会社では相変わらず心擦り減らす毎日が続いていましたが、社外活動で得た人脈や副業のおかげで、自分の心の拠り所を作ることができました。
会社で落ち込んだメンタルを社外活動で落ち着かせるといったサイクルを少しずつ作ることができるようになり、自分の心の安定をなんとか保つことができたのです。
そんな中、大阪へ異動して3年目の秋。
会社から打診されたのが「マネージャー試験」の受験です。
正直、まったく受かる気がしませんでした。
会社では完全に自信をなくしていたし、1日乗り切ることだけでやっとの状態だったので、マネージャーなんて到底無理と信じて疑わない状態だったからです。
でも、誰でも受験できるわけではないし、1年に1回のチャンスだから受けるだけ受けてみよう、、
そんな弱気な気持ちで受験することにしました。
結果は見事に不合格。
「まぁ仕方ないな」と、そこまでダメージはありませんでした。
そして、翌年。
2回目のマネージャー試験の受験機会がやってきました。
結果、2回目の試験も不合格。
このときは、1回目と違ってかなり落ち込みました。
落ち込んだ理由
- 同期や後輩に追い抜かれていく辛さ
- 出世コースから外れたことが確定
①同期や後輩に追い抜かれていく辛さ
同期が順調にステップアップしていく中、自分だけ同じ場所で踏み止まっていることに嫌気がさしました。
電話やメールをするとき、同期を「マネージャー」と呼ぶことへの抵抗感も。
そして、後輩がマネージャー試験に合格していく事実を目のあたりにしたとき、自分は置いていかれている感覚に陥りました。
②出世コースから外れたことが確定
同社では、「2回マネージャー試験に失敗する=出世コースから外れる」という暗黙のルールがありました。
出世コースから外れた時点で、40歳、50歳、60歳の将来像が分かります。
そう。36歳にて会社員人生のゴールが見えてしまったのです。
- このまま会社の良いように使われていくだけなのか、、
- 自分は会社に認められてないし必要とされてないんじゃないか、、
- 将来、同期や後輩との差が益々広がって、もっと自分の存在に悩む日がくるんじゃないかな、、
「あんな辛い思いまでして頑張ってきたのに、自分は何をやってるんだろう、、自分の人生、何なんだろう、、」
大の大人が電気もつけずに真っ暗な部屋の中で下を向いてボーっとしていました。
これまでの辛い思いがあふれてきて、こらえきれずに涙してしまいました。
そして、社外活動から得た自分の価値観の変化や社外の人たちとの交流を思い出したとき、自分の中で糸がプツンと切れました。
「もう、この会社で頑張る意味なんてないな、、」
- 大企業で出世しなくたっていいじゃん。
- まわりに何て思われてもいいじゃん。
- 親の期待に答えなくてもいいじゃん。
この瞬間、いままで自分で勝手に守ってきたプライドや見栄を完全に捨てることができました。
はじめて自分の気持ちを優先したんです。
なんだか吹っ切れて、心も軽くなりました。
そして、翌日。
何気なく立ち寄った本屋で出会った「1冊の著書」、何気なく検索して見つけた「1つのブログ記事」との出会いに後押しされて、僕は今度こそ転職して新しい環境でチャレンジすることを決めました。
2回目の転職活動
気持ち新たに、2回目の転職活動をスタート。
自分の希望だった”東京”、”経営管理職”の企業を中心にエントリーをしました。
1回目の転職活動は34歳。
あれから、2年経って36歳。
はたして36歳で転職できるのか半信半疑でしたが、「いまの環境を変える!!」と覚悟を決めていたので、諦めずに頑張ろう。そう心に決めていました。
すると、転職エージェントから紹介してもらった2社目の企業が、たまたま自分の希望にぴったり当てはまる条件だったので、さっそくエントリー。
有難いことに書類選考を通過して、1回目の面談にたどり着けました。
34歳のときに、「未経験はちょっと、、」「いまの会社で頑張った方がいいんじゃないですか?」
こんなことばかり面談で言われてきたので覚悟していましたが、そんなことは一切言われませんでした。
逆に、”これまで努力したこと”、”その努力から得られた実績や経験”、”中小企業診断士資格を取得しようした思い”など、同業界、同業種における経験や実績ではなく、これまでのやす個人の経験や実績、意欲、ポテンシャルを総合的に判断してくれたのです。
無事、1次面談を突破。
その後も、2次面談、最終面談と進み、内定をいただくことができました。
長期間にわたる転職活動も覚悟していたのですが、転職活動を始めて2か月後、ご縁をいただくことができたのです。
1回目の転職活動と合わせると計27社。
こうして、年齢、業界、企業規模の壁を越えて、自分の転職先を決めることができたのです。
そして、両親に転職を決意したことを報告。
父親は愛知から大阪まで仕事をほったらかしてすっ飛んできました。
1回目のときと同じく、僕の説得にかかります。
でも、1回目のときと違ったのは、僕の決意です。
1回目は、僕の余裕がまったくなかったので話し合いにもならなかったのですが、今回は父親の言っていることをしっかり聞いて、一つずつしっかり真正面から答えていくことができました。
少し経って、父親も僕の決意が変わらないことを悟ったのかもしれません。
途中から説得を諦めたような顔つきに変わり、最後は「分かった。頑張れ!!」と力強く背中を押してくれました。
父親はその日のうちに帰宅。
その夜、僕は昼間の出来事を振り返っていました。
父親に転職の話をしたとき、1回目も2回目も最初は猛反対していました。
でも、1回目と違ったのは、2回目の最後は自分の決断を後押ししてくれたことです。
もしかしたら、父親は表面上は僕の転職を反対していたのかもしれないけど、その裏側では、僕の覚悟が決まっていないことを心配していたんじゃないかなって思いました。
1回目のフラフラした気持ちのままでいったら、どこへ行っても上手くいかないし、人間関係なんて大なり小なりどの会社でも起きるから、同じ状態になったら、またすぐに転職したくなる。
そんなことを伝えていてくれたのかもしれません。
父親ときちんと向き合って話したのは、これが初めて。今でも忘れられない大切な出来事です。
退職
父親への報告も終わり、いよいよ社内説明。
1回目のときと違って、自分の覚悟は決まっていたので、上司の顔色が怖くて退職が切り出せないことはありませんでした。
1.5ヶ月で5人の上司と面談。
そこで言われたのは、「上手くいくわけない」「世の中、そんなに甘くない」といったネガティブワードのオンパレードでした。
さらに
- 希望の部署はない?調整するよ。
- この前のマネージャー試験もあと一歩だった。次は必ず合格するよ。
- やすはこの会社にとって必要な人材だから、もう少し一緒に頑張ろう。
と、逆に今までにはあり得なかった優しい言葉をかけてきた上司もいました。
「なぜ、上手くいくわけないと決めつけられる必要があるのか、、」
「なぜ、自分が一番苦しいときに何も助けてくれないのに、こんなときだけ優しくなるのか、、」
正直、人間不信に陥りました、、
気持ち的に辛い1.5ヶ月。
でも、そんな苦しい時期もなんとか乗り越えることができました。
たぶん、1回目に転職を考えたときの状態だったら、上司からの説得やこのやり取りに耐えられず、あっさり転職を諦めていたんだろうな、、
社外の人と交流していろいろな価値観を身につけて、自分と徹底的に向き合ってきたおかげで、自分の思いや軸が固まっていたからこそ、乗り越えることができたんだと思います。
こうして、24歳に入社して、約12年間お世話になった会社を退職。
次なるステージへと進むことになりました。
社会人13年目~(東京)
転職して初めての関東へ。
主なTOPIX
- 新しい環境で再出発
- 習慣化について学ぶ
- Twitterスタート
- デュアル勤務の経験
新しい環境で再出発
これまでの
- 職種:システムエンジニア等
- 企業規模:大企業
- 勤務場所:西日本
から、
- 職種:経営管理
- 企業規模:中小企業
- 勤務場所:東京
へとガラリと変わりました。
まさに第二の社会人生活のスタート。
新社会人になった気持ちで頑張ろう!と36歳の新たな挑戦が始まりました。
最初に味わったのは、大企業と中小企業との文化の違い。
- 1人の守備範囲がものすごく広い。
- ルールは決まっていないこともたくさん。
- より個人が責任をもって進めていくケースが多い。
- 役割分担はあるようでない。
今までと違うことばかりで戸惑いの連続。
会社のルールを覚えたり、これまでと違う業務のやり方に慣れたりすることに必死でした。
さらに、会計、税務、決算、総務、人事、会社法、M&A、、
これまでシステム関連の業務しか関わってこなかった自分にとって、まったく未知の領域。
まさに中小企業診断士の資格で学んだことを実践する形となったのですが、机上で学んだだけで実務経験はほぼゼロ。
まったく、太刀打ちできない状況でした。
診断士資格持ってるから分かるよね?と言われる日々がほんとに苦しかったです、、
慣れないこと、知らないことだらけで大苦戦。
早く成果を出さなければと焦ってばかりで空回り。
上司や後輩からも叱責される日々が続いて、思うようにいかないことに悩んでいました。
でも、成果ばかり気にしても心が辛くてしんどくなるだけ。
「自分は新しい職場では1年生」「最初だから分からなくて当たり前」。
そう開き直って、
- 過去資料を読みまくる。
- 資格の専門学校に通って勉強する。
- 知らないことは知っている人に素直に聞く。
- 説明や質疑応答のシミュレーションを念入りに行う。
- 分からないことは幾つものWEBサイトや書籍で調べまくる。
- ちょっとでも分からないと思ったことは、自分が納得いくまで調べる。
と、一つずつ目の前の仕事に丁寧に向き合い、自分で調べて作業していくことで、自分の知識と経験を増やしていくスタンスを取ることを心がけました。
すると、だんだんと自分の”知っている”や”出来る”が増えて、少しずつ心の余裕や自信も生まれるように。
少しずつ叱責される回数も減り、業務を任せてもらえる範囲が広くなっていきました。
業務量は多く、22時ごろまで会社に残る日も何度もありましたが、気持ちは充実しており、前向きに頑張ることができました。
習慣化について学ぶ
転職して約1.5年が経ち、38歳。
まだまだ本業に慣れることで精一杯の自分でしたが、40代を手前にして、充実した40代を迎えるためにも、本業に加えてプライベートを充実させる”何か”を見つけたいと考えるようになりました。
このとき、興味を持ったのが「習慣」です。
これまでの自分の人生、「継続できたこと」と「継続できなかったこと」がありました。
- ブログは過去3回挫折。
- ゴルフスクールは2回通って挫折。
- 英語、朝活は数えきれないほど挫折。
- MBAは100万円以上払って半年で挫折。
- 税理士、行政書士、公務員試験の勉強は1ヶ月で挫折。
- 中学バスケ部は、運動オンチだったのに3年間サボらず2年冬にスタメン。
- 大学受験は、3年次に土日それぞれ8時間以上勉強して第一志望に合格。
- 大学院では、苦手な研究を投げ出さずに1年続けて国際学会で発表。
- 中小企業診断士資格を10ヶ月830時間の勉強でストレート合格。
- 転職活動は計27社目にして異業界へ転職に成功。
続けることができたときは、良き結果に繋がっているし、人生変えるきっかけになっている。
逆に、挫折したときは、たくさんのお金も時間も失っている。
もうこれまでのように失敗や挫折を繰り返しているお金も時間の余裕もない。
こうならないためにも、良い習慣を身につけて悪い習慣を手放す方法を知りたい!
そんな思いから、習慣化について学びたい!と考えるようになりました。
「何か良い方法はないものか、」
そうやって習慣化について学ぶ方法を探していたとき、たまたま習慣化講座のお知らせが目に飛び込んできました。
なんとなく内容が気になったので、無料セミナーに申し込んで、講座内容の説明を聞きました。
講座の費用は、お世辞にも安い金額とは言えません。
でも、
- この講座で学んだら習慣化が身につく気がする。
- この講師から学んでみたい。
そんな直感が働いたのです。
良き習慣を身につける技術は一生モノの技術。
自分の直感を信じて、飛び込むことに決めました。
1年かけて、習慣化についてみっちり勉強。
そして、学んだ内容をベースに実践した結果、”早起き”、”ランニング”、”読書”、”資産形成”といった新しい習慣を身につけることができました。
習慣化について1年真剣に学んで実践したおかげで、自分の人生好転したのはもちろん、今でも繋がりのある最高の仲間とのご縁、Twitterを始めるきっかけにも繋がっていきました。
やすの習慣関連コンテンツ
僕が習慣化について学んだ「知識」、これまで継続・挫折してきた数々の「経験」をもとに、無理せず少しずつ習慣化を目指すための具体的なプロセスやコツを書いたコンテンツです。
続かない人も続く人に変われる。
誰でも習慣化できるようになる方法をお届けしたいです。
遅くても遠回りでも小さな一歩ずつでも、諦めずにコツコツ継続していけば、自分なりの花咲く瞬間はきっと来る。良き習慣で人生好転させることができると信じています。
Twitterスタート
「Twitter始めたんだ」
一緒に習慣を学んでいた学友からの何気ない一言で、それまでやったことも見たこともなかったTwitterを始めました。
最初は、「学友が始めるならやってみようかな」「Twitterでつぶやいたら習慣化の役に立つかな」。
そんな軽い気持ちでスタート。
Twitterを始めて3か月目。
全然反応もなく、何をツイートしたらいいのかも分からず、散々たる状況。
早くも辞めたくなりました。
でも、一緒にTwitterを始めた学友が頑張っている姿を見て、自分から辞めることができませんでした。
「学友が頑張ってるから自分もやめられない」
そんな思いで踏み止まった後、少しずつTwitterへ向き合うようになってから、だんだんとTwitterが楽しくなってきました。
そして、気づけば3年。
なんと、始めたころには夢にも思わなかった10,000フォロー様達成までたどり着くことができたのです。
どんなに遅くてもコツコツ諦めずに続けていければ、大きな結果にたどり着く。Twitterを通じて、心底、実感しました。
やすのTwitter関連コンテンツ
僕がTwitterを始めて3年間で10,000フォロワー達成するまでに至った行動や思考の変化、経験から得た学びを書いたコンテンツです。
凡人。不器用。遅い。遠回りでも、コツコツ諦めずに続けていれば、いつか必ず10,000フォロワーを達成できる。
そんなメッセージを、ぜひお届けしたいです。
爆速で10,000フォロワー達成する人がいる一方、僕のようにコツコツ諦めずに継続している人もいるのでは、、遅くて遠回りだらけの自分だからこそ伝えられることがあるのでは、、そんな思いで執筆しました。
デュアル勤務の経験
大阪本社時代、東京で開催された中小企業診断士資格関連のイベントに出席したときに出会った代表とのご縁がきっかけで、新しい副業機会を得ることができました。
これまで経験してきた自宅で出来る執筆やスポットの事業計画作成、コンサル業務でなく、一定期間出社して勤務する形。本業と別の勤務先で勤務するいわゆる”デュアル勤務”を経験することになります。
日中は本業。平日の夜または土日に自分が出勤できる日を選んで別の勤務先に出社。
- 本業を時間内で終わらせる工夫と集中力。
- 別の会社の勤務方法を知ることが出来る。
- 新しい経験や知識を身につけることが出来る。
- 社外のネットワークが広がる。
と約1.5年のデュアル勤務経験からたくさんのことを身につけることができ、とても貴重な経験になりました。
社会人19年目~(いま)
あのとき、転職して約6年。
いま、本業、副業、情報発信、家族、育児と忙しいながらも、心身充実した日々を過ごせています。
本業は、目の前の業務に全力で向き合った結果、
- 2チームのマネージャー
- 3社の社外監査役
- 給料は前職越え
までたどり着くことができました。
副業は、中小企業診断士資格の副業をコツコツ継続した結果、年7桁に到達することができました。
情報発信は、Twitterを始めたことをきっかけに、新しい可能性を広げることができています。
人生、いつからだって遅くない。
自分の気持ちを大切にして一歩踏み出せば、いままでと違う世界が見えてくる。そう信じています。
これからも諦めずに自分の人生歩み続けていきたいと思います。
ここまでお読みいただき、ほんとにありがとうございました!これからもよろしくお願いいたします。
人生変わるきっかけになったこと7選
これまで歩み続けてきた42年間。
決して順風満帆な人生ではなく、失敗と挫折の繰り返し。
でも、いろいろな経験や行動をきっかけにして、少しずつ人生好転させることができました。
そのポイントは何だったのか?
自分なりに「これかな」と思ったことを7つ挙げてみます。
人生変わるきっかけになったこと7選
- 自分の気持ちを大切にしたこと
- 自分の直感を信じて動いたこと
- 良き環境に身を置いたこと
- 徹底的に自分と向き合ったこと
- 副業を継続したこと
- Twitterで情報発信を続けたこと
- ムダな経験なんて何一つないって思ったこと
自分の気持ちを大切にしたこと
これまでの僕は世の常識やまわりの目ばかり気にしていました。
- 浪人してはならない。
- 大学院では論文発表しなければならない。
- 会社員の成功は大企業で出世しなければならない。
- 資格は取らなければならない。
- 親の期待に答えなければならない。
- 貯金しなければならない。
- 目の前のつらいことから逃げてはならない。
“べき論”の嵐。
自分の感情を表現することは苦手。
とにかく、固定概念が強かったんです。
でも36歳。
はじめて、「べき論」ではなく自分の気持ちに正直になりました。
そう。12年間勤めた大企業を辞めて中小企業への転職に踏み切ったのです。
最初は怖かった。
なんといっても、これまでの36年間を捨てることになったのですから。
でも、いざ一歩踏み出したら、自分の肩の荷が下りて一気に心が軽くなりました。
一体自分の人生は誰のための人生なのか?
間違いなく「自分」のための人生です。
36歳までの僕は自分の人生を生きているようで、他人の期待に応えるための人生を過ごしていたんです。
一度切りの貴重な人生なんだから、もっと自分の好きなように生きていい。
いまはそう思っています。
自分の直感を信じて動いたこと
どちらかと言えば、僕はじっくり考えるタイプなのですが、気持ちが動いたときは、その気持ちに従うようにしています。
- 中小企業診断士の勉強は何気なく手に取ったパンフレットを見て受験を決めた。
- 大阪から愛知への中小企業診断士勉強会も気分転換にと思って参加。
- 大阪にいたとき気になった東京の診断士イベントに参加。
- 大きな自己投資も”これは良さそう”と思って参加。
- Twitterも学友から誘われて、スタート。
自分の直感って意外と当たります。
そして、直感が働いたときに取った行動は後悔しないことが多いし、逆に行動しなかったときは後悔することが多いような気がします。
思い返せば、直感で動いたときの行動が、自分の人生のターニングポイントになっています。
直感が当たるのは、今までに積重ねてきた経験と思考の結果だから。
そう思えば、単純な勘とは違って、自分の人生から生まれた根拠あるものなので、信頼に足るものだなって考えることができます。
良き環境に身を置いたこと
自分を変えたいと思ったとき、勇気を持って新しい環境に飛び込んできました。
前職大阪本社でパワハラを受けてメンタルダウンに陥ったとき、中小企業診断士の仲間や成功者が集うコミュニティに身を置いたことで、自分の考え方や在り方を変えることができ、自分で自分を否定することがなくなりました。
習慣化を学ぶ環境に飛び込んだおかげで、心地よき仲間と一緒にたくさんの習慣を身につけることができました。
Twitterを始めたことで、”40代でも遅くない”、”40代でも夢を持ち続けていい”、と将来に希望を持つことができ、その明るい未来に向かって頑張る毎日と素敵な仲間とのご縁に恵まれました。
良い環境に身を置くことのメリットはたくさんあります。
- 前向きな気持ちになれる。
- 毎日を大切にしようと思える。
- 自分の人生頑張る原動力になる。
- 良き師匠や仲間とのご縁ができる。
- 自分のステージを一段上げることができる。
人は環境によって影響されるからこそ、良き人生を過ごすためには、良き環境に身を置いて良き仲間との交流を続けることが必須なのだと思いました。
徹底的に自分と向き合ったこと
これまで
- メンタルダウンしていたとき。
- 転職した直後。
- 習慣化を学んでいるとき。
- Twitterを始めて2年経ったとき。
と、自分のことが分からなくなったとき、節目のタイミングで自分と徹底的に向き合ってきました。
過去の自分
- これまでの成果
- これまでの失敗/挫折
- 夢中になっていたこと
- 経験・そのとき感じたこと
- 生まれたときから今までの自分年表
いまの自分
- 大切にしている価値観
- 好きなこと/嫌いなこと
- 得意/不得意
- 長所/短所
- 環境(本業、副業、家族、趣味、資産、知識、人間関係)
未来の自分
- 目標(1年後、3年後、5年後)
- 将来の夢
自己分析をして分かったことは、”自分のことは意外にも分かっていないんだな”ってことです。
自分のことが分かっていないときは、自分がやっていることに自信が持てず、フラフラした状態だった気がします。何をやっても満足せず、いまやっていることが自分のためになっているのかどうかも分からず、心が満たされない状態でした。
でも、自分のことが分かってからは、仕事や家族との向き合い方も変わり、一つ一つの行動に軸を通すことができたような気がします。
副業を継続したこと
「受験体験記を書きませんか?」
31歳。中小企業診断士の資格を取得して、受験予備校からもらった一通のメールが僕の副業人生の始まりでした。
あれから11年。
コツコツ副業を継続したおかげで、自分の人生大きく変わりました。
- 副収入のおかげで、自己投資、資産形成ができた。
- 副業から得たご縁のおかげで、転職する勇気が湧いた。
- メンタルダウンしていたとき、副業が気分転換になった。
- 会社では身につかない新しい知識を身につけることができた。
- 執筆、共著、デュアル勤務。会社では経験できない経験ができた。
もし副業をやっていなかったら、僕は日々の生活費を稼ぐために、前職でパワハラや転勤を我慢しながら会社に行くだけの人生を過ごしており、出世を重ねていく同期や後輩に負い目や不満を感じながら生きていたと思います。
何の楽しみもない毎日を過ごして、将来に希望なんて一切持てていなかったと思います。
でも副業のおかげで、この状態から脱することができました。
いまは、自分のやりたいことを達成すべく副業に取り組んでいるおかげで、日々充実感や達成感を味わうことができているし、自分の人生を生きている実感を得ることができています。
副業は、会社員が自分の人生を切り拓いていくための最高の手段。
これからも、続けていきたいです。
Twitterで情報発信を続けたこと
これがほんとに大きかったです。
Twitterを始めたのは38歳。
何者でもないただのサラリーマン。
そんなサラリーマンでも3.5年間、コツコツ情報発信を続けたおかげで、新しいご縁や副業の機会、自分の新しい可能性を手に入れることができました。
Twitterだけでなく、note、blogといった新しい機会に挑戦できたのも、Twitterで情報発信することの大切さを学ぶことができたからだと思います。
Twitterを通じて広がる可能性は無限大。
これからも自分の思いや在り方を発信していきます。
ムダな経験なんて何一つないって思ったこと
前職最初の2年間、システムエンジニア職で身につけた経験や知識が、転職先で全社システムを検討するプロジェクトに配属されたときに役立ちました。
投資で痛い目にあったからこそ、お金の勉強の必要性を実感できたり、甘い誘惑に良き話はなかったりすることを実体験として学べました。
前職で議事録作成、Excelの集計作業、社内説明用のパワポ作成。
こんなことばかりやっていたのですが、おかげで、ブラインドタッチのスピードが早くなったり効率的な集計作業ができるようになったりと、転職先や副業でとても役に立っています。
メンタルダウンでどん底にいたからこそ、自分の人生や自分のやりたいことを真剣に考えるようになり、自分と徹底的に向き合うようになりました。そして、転職も実現できました。
あとから振り返ると、つらい経験を乗り越えたときに得た経験ほど、自分の成長に繋がっている気がします。
ムダな経験なんて何一つない。
必ず将来どこかで役に立つし、いまはそのための準備期間。
そう思っています。
やすの思い
人生、諦めなければ道は拓ける
やすが大切にしている思いです。
これまで、心が辛くなったこと、悔しい思いを味わったこと、人生諦めたくなったこと、何度もありました。
そんなとき、いつも大切にしてきた言葉があります。
「最後まで、、、希望を捨てちゃいかん。諦めたらそこで試合終了だよ」
僕の大好きなマンガ「スラムダンク」の安西先生の名言。
この言葉に何度も救われましたし、人生頑張ろうって思いました。
大学院時代は、自分の苦手なプログラミング言語に大苦戦。まったく成果が出ない中でもなんとか粘り続けた結果、1年後に小さな成果を出すことができ、国際学会発表、国際論文寄稿までに至りました。
前職大阪本社ではパワハラにあって心身の異常が自覚できるほどのメンタルダウンに陥りましたが、中小企業診断士としての社外活動、約200万円を投じて3つのコミュニティに身を置いて、自分を取り戻すことができました。
転職活動は、書類や面談で落ちてばかりでも諦めずに続けた結果、計27社目にご縁をいただくことができ、両親や上司への説明も乗り越え、36歳で異業界、異業種、中小企業、初勤務地へと踏み出すことができました。
転職先は、初めてのことだらけの仕事、文化、上司同僚に上手くいかず悩む毎日でしたが、6年経って過去最高の給料。3社の社外監査役に就くことができました。
Twitterは、バズなし。爆伸びなしでも、コツコツ継続した結果、3年で10,000フォロワーさんを達成することができ、新しいご縁や副収入の機会をいただくことができました。
・諦めたらそこで道はお終い。
・でも、諦めなければ道は続くし何が起こるか分からない。
遅くても遠回りでも小さな一歩ずつでもいい。
自分から諦めずにコツコツ進んでいけば、道が拓ける瞬間がきっと来る。
そんな未来を心から信じて、今日もコツコツ続けます!
まとめ
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
貴重な時間を使って最後までお読みいただいことに、心から感謝申し上げます。
自分の人生、自分で舵を取って自分で道を切り拓いていく。
そうすれば、最高に楽しく充実した時間を過ごせると信じています。
これからも一緒に自分の人生を諦めずに頑張っていきましょう!